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鶴林寺(かくりんじ)は、兵庫県加古川市にある天台宗の寺院。山号は刀田山(とたさん)。本尊は薬師如来。加古川市街地のすぐ外側(市役所と明姫幹線の間)に位置する。近畿地方に数多くある聖徳太子開基伝承をもつ寺院の1つで、太子建立七大寺の一つともいうが、創建の詳しい事情は不明である。平安時代建築の太子堂をはじめ多くの文化財を有し「西の法隆寺」とも称されている播磨地方有数の古寺である。宝物館は新西国三十三箇所第27番札所で本尊は聖観音(あいたた観音)である。

歴史
伝承では創建は崇峻天皇2年(589年)にさかのぼり、聖徳太子が当時物部守屋に迫害されて播磨の地にいた高麗僧・恵便(えべん)のために秦河勝に命じて建立させたという。養老2年(718年)身人部春則(むとべのはるのり/みとべのはるのり)なる人物が七堂伽藍を整備したというが、伝承の域を出ない。

ただし、推古天皇14年(606年)、聖徳太子が法華経を講義し、その功で天皇から播磨国の水田百町を得たことは史実とされ、聖徳太子と播磨には何らかの関連があったとみられている。創建時は四天王寺聖霊院という寺号であったものを、天永3年(1112年)に鳥羽天皇によって勅願所に定められたのを期に「鶴林寺」と改めたという。

鶴林寺には飛鳥時代後期(白鳳期)の銅造聖観音像「あいたた観音」があり、本堂本尊の薬師三尊像は平安時代前期・10世紀にさかのぼる古像である。

現在も主要な堂塔だけで16棟の大伽藍を有するが、鎌倉時代・室町時代には太子信仰の高まりもあって寺坊だけで30数箇坊以上を有する規模であり、寺領も2万5千石を有し、聖徳太子以来の法華経講讃の寺として繁栄した。

戦国時代には近隣の圓教寺が戦火に巻き込まれるなどしたが、姫路領主だった黒田職隆、黒田孝高親子の説得で織田信長派となり戦に巻き込まれず、当時の建築物が多数現存している。のちに福岡藩の大封を得た黒田家は鶴林寺にて大規模な法要を行い、礼として金銀を寄進した。寺には職隆、孝高と交わした書状が多数残っている。
しかし、江戸時代に入ると次第に衰微し、塔頭8箇坊、寺領117石にまで落ち込んだ。明治時代となり神仏分離が行われると塔頭は宝生院、浄心院、真光院の3箇寺のみとなった。
境内および塔頭の周囲三方が鶴林寺公園として整備されC11形蒸気機関車などが展示されている。